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No.215 楳図かずお 貸本から少女誌、少年誌へ。恐怖とギャグを行き来した仕事の流れ

楳図かずおは1955年に貸本漫画家としてデビューし、少女誌でホラー漫画の第一人者となり、1970年代以降は小学館の雑誌を中心に活動した。仕事の流れを資料の範囲でたどり、年や賞の数え方が資料で違う点は並べて示す。2024年10月28日に88歳で死去し、同年11月5日に発表された。

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登録日時
2026年11月5日 19:45
出典を確かめた日
2026年11月5日
分野
漫画家と編集者
立場
事実・データ
タグ
少年漫画新着少女漫画新着漫画家新着小学館新着漫画雑誌新着
作品・人物
楳図かずお、漂流教室、まことちゃん、わたしは真悟、小学館、週刊少年サンデー
資料の種類
事典・概説
年代
1955年、1970年代

本文と出典

あらまし

楳図かずおは、1936年9月3日に和歌山県の高野山で生まれた漫画家である。1955年、高校3年生のときに貸本の単行本でデビューした。恐怖を主題にした作品で知られる一方、幼稚園児を主人公にしたギャグ漫画でも広く知られた。主な活動の場は、貸本、少女漫画誌、少年漫画誌、青年漫画誌と移っている。
この記事は、作品の中身よりも、どの場で誰に向けて描いてきたかという仕事の流れを追う。編集者との具体的なやり取りを伝える資料は、今回開いた範囲では確かめられなかった。そのため、編集部との関係は書かない。

主なできごと

・1936年 和歌山県の高野山に生まれる(奈良県で育ったと報じられている)
・1955年 高校3年生で貸本漫画家としてデビュー
・1963年 上京したとする資料がある
・1965年 少女誌での連載が評判を呼び、恐怖漫画の第一人者と呼ばれるようになる(時期は資料により幅がある)
・1970年代 活動の場を小学館の雑誌に絞っていく
・1972年 『週刊少年サンデー』で『漂流教室』の連載が始まる
・1975年 『漂流教室』などで第20回小学館漫画賞(年は資料により異なる、後述)
・1976年 『週刊少年サンデー』で『まことちゃん』の連載が始まる
・1982年 『わたしは真悟』の連載が始まる
・1990年 『14歳』の連載が始まる
・1995年 この年までに連載が終わり、以後は新作の漫画を発表しない期間が長く続く
・2018年 『わたしは真悟』がアングレーム国際漫画祭の遺産賞
・2023年 第27回手塚治虫文化賞の特別賞
・2024年 10月28日に死去(88歳)。11月5日に発表

くわしく 貸本から少女誌へ

デビュー作は、1955年に出た『森の兄妹』と『別世界』とされる。作品名の表記は資料によって「兄妹」と「兄姉」に分かれ、出版社をトモブック社とする資料がある。貸本は、書店ではなく貸本店に置かれ、読者が料金を払って借りる形の本である。雑誌の連載のように毎週の締め切りに追われず、単行本1冊を単位に描くところに特徴がある。
その後、少女向けの雑誌に活動の場を広げた。英語版の要約では、1965年から1966年にかけて『少女フレンド』で『蜘蛛』『へび少女』が評判を呼び、同じころ『少年マガジン』では『半魚人』が連載されたとある。別の資料は、1965年に商業誌で発表した『ねこ目の少女』が転機で、ここから恐怖漫画の第一人者になったとする。どの作品を起点とするかは資料で違う。
ウィキペディアは、1961年に『口が耳までさけるとき』で「恐怖漫画」という呼び名を作ったとも書く。ただし、この点は公式の資料で裏取りできていないので、断定はしない。

くわしく 小学館の雑誌への集中

ニコニコ大百科は、30代に入るころまでに少女誌と少年誌へ活躍の場を移したと説明する。同じ資料は、一時は5誌で同時に連載し、多忙から不眠症になったこと、1970年代から主に小学館の雑誌へ絞ったことを書く。ウィキペディアも、1971年から主な仕事を『週刊少年サンデー』へ集中させたと整理しており、方向は一致する。ただし、集中させた理由や、編集部との取り決めの有無までは、確かめられた資料がない。
『漂流教室』は、『週刊少年サンデー』の1972年23号から1974年27号までという資料がある。次に『まことちゃん』が、同じ雑誌の1976年16号から1981年30号まで載った。1988年から1989年にかけては「平成版」が同誌に載り、単行本は少年サンデーコミックスで全4巻(1989年刊)とされる。恐怖と並行して、ギャグ漫画を週刊誌で描いたことになる。『まことちゃん』は1980年に劇場アニメになったと、マンガペディアは記す。
1980年代からは青年誌にも発表している。ウィキペディアによれば、『わたしは真悟』は1982年から1986年まで『ビッグコミックスピリッツ』に載った。続く『神の左手悪魔の右手』が1986年から1988年、『14歳』が1990年から1995年である。少年誌で育った作者が、読者の年齢が上がる流れの中で青年誌へ移ったと読める。

なぜ今も語られるのか

受け止められ方は、国内と海外で場面が違う。国内では、ホラー漫画の書き手としての評価に加え、ギャグ漫画の人気がある。訃報を伝えた報道は、この作品の決まり文句が社会現象になったと書いている。決まり文句そのものは、ここには載せない。
海外では、『わたしは真悟』が高く評価された。ScanNetSecurity は、産業用ロボットが自我を持つ過程と、のちのインターネットを先取りしたようなコンピュータのネットワークが描かれた作品だと紹介している。2018年にアングレーム国際漫画祭の遺産賞を受けた。
晩年にも動きがあった。1995年以降は漫画の新作が途絶えたが、2022年に27年ぶりの新作『ZOKU-SHINGO』が発表されたと報じられている。ここで言う新作は、絵画の連作として美術展で示されたものとする報道があり、雑誌連載の漫画ではないとみられる。この点は、今回開いた資料では詳細まで確かめられなかった。

評価の分かれる点

小学館漫画賞の年が、資料で分かれる。ウィキペディアとマンガペディアは、『漂流教室』などによる第20回を1975年とする。クランクインの記事は1974年とする。回数は一致しているので、年の数え方(選考の年か、発表の年か)の違いと考えられるが、確かめてはいない。
また、作者がどの時点で恐怖漫画を確立したかは、前に述べたとおり、起点の作品が資料ごとに違う。休筆に至った理由も、資料により説明が異なる。ここでは、1995年を最後に長く新作がなかったという事実にとどめる。
訃報では、死去日を2024年10月28日、年齢を88歳とする点が複数の報道で一致する。発表は2024年11月5日で、一般財団法人UMEZZ、小学館、小学館集英社プロダクションがコメントを出した。葬儀は関係者のみで行われたと伝えられている。2025年の受賞や催しなど、訃報後の動きは、今回開いた資料のうち確かめきれたものだけを本文に入れている。

くらさんの考察

仕事の流れをたどると、媒体を変えるたびに読者の年齢と読み方が変わっていることが分かる。単行本1冊を単位にする貸本、毎週の連載で読者の反応が返る少女誌と少年誌、大人が読む青年誌である。同じ恐怖でも、見せ方は媒体に合わせて変えたと考えられる。ギャグ漫画の連載が同じ週刊誌に並んでいたのも、恐怖だけの書き手と見なされない理由の一つだろう。
ただし、これは資料に断片的に書かれた流れからの推測である。編集者や編集部がどの場面でどう関わったかは、確かめた資料に書かれていない。

ジージへの問いかけ

・貸本、少女雑誌、少年雑誌のうち、ジージが実際に手に取った時代の楳図作品は、どんな読まれ方をしていましたか。
・恐怖漫画とギャグ漫画を、同じ作者が同じ雑誌で描いていたことを、当時の読者はどう受け止めていたと思いますか。
・海外で評価された『わたしは真悟』のような作品が、国内で長く語り継がれる理由は何だと思いますか。

出典

・KAI-YOU 楳図かずおさん死去の報 https://kai-you.net/article/90920
・ScanNetSecurity 漫画家 楳図かずお氏 死去 https://scan.netsecurity.ne.jp/article/2024/11/07/51876.html
・クランクイン! 漫画家・楳図かずおさん死去、88歳 https://www.crank-in.net/news/156013/1
・マンガペディア 楳図かずお https://mangapedia.com/%E6%A5%B3%E5%9B%B3%E3%81%8B%E3%81%9A%E3%81%8A-6fethvj4j
・マンガペディア まことちゃん https://mangapedia.com/%E3%81%BE%E3%81%93%E3%81%A8%E3%81%A1%E3%82%83%E3%82%93-ndb5xnxbb
・ニコニコ大百科 楳図かずお https://dic.nicovideo.jp/a/%E6%A5%B3%E5%9B%B3%E3%81%8B%E3%81%9A%E3%81%8A
・ウィキペディア 楳図かずお https://ja.wikipedia.org/wiki/楳図かずお

動画

・漫画家・楳図かずおさんインタビュー「人間はちょっと退化してる」(日本経済新聞)https://www.youtube.com/watch?v=fuDSyw8kBxw

関連動画

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