No.203新着 赤塚不二夫 貸本の少女漫画からギャグの王道へ、仕事場ごと育てた人
赤塚不二夫(1935〜2008年)は、少女漫画でデビューしたのち、1962年の『おそ松くん』でギャグ漫画の人気作家になった。連載の経緯、1965年設立のフジオ・プロ、担当編集者との共同作業を、確かめられた範囲で整理する。
本文と出典
あらまし
赤塚不二夫は1935年9月14日、旧満州国に生まれ、2008年8月2日に72歳で亡くなった漫画家である。本名は赤塚藤雄。筑摩書房の著者紹介は、1956年に単行本『嵐をこえて』でデビューし、同年トキワ荘に入居したと記す。
『おそ松くん』『天才バカボン』『もーれつア太郎』など、1960年代のギャグ漫画を代表する作品を送り出した。1965年には自分のプロダクション、フジオ・プロを設立し、ここから古谷三敏、土田よしこ、とりいかずよし、北見けんいちらが巣立った。
この記事では、赤塚自身の仕事の流れを、デビュー、ギャグへの転換、連載の掛け持ちと掲載誌の移動、仕事場と編集者との関わりの順にたどる。ほかのギャグ漫画家や作品の話には広げない。
主なできごと
・1935年 旧満州国に生まれる
・1956年 単行本『嵐をこえて』でデビュー。同年トキワ荘に入居する
・1958年 『漫画王』に連載した『ナマちゃん』がヒットし、ギャグ漫画に転じたと事典が記す
・1962年 『週刊少年サンデー』で『おそ松くん』の連載が始まる。同年、『ひみつのアッコちゃん』も人気となる
・1965年 フジオ・プロを設立する(設立年を記した資料は1点。下の【評価の分かれる点】を参照)
・1967年 『天才バカボン』『もーれつア太郎』が始まる(『もーれつア太郎』の開始年は資料により1966年とも1967年とも書かれる)
・1971年 『レッツラゴン』が始まる
・1997年 日本漫画家協会賞の文部大臣賞を受ける
・1998年 紫綬褒章を受章する
・2008年 8月2日に死去する
くわしく 少女漫画からギャグへ
赤塚が漫画を描き始めたきっかけとして、手塚治虫の『ロストワールド』との出会いがよく語られる。書籍紹介サイトの記事は小学5年生のとき貸本で読んだと書き、マンガペディアは小学6年生のときとする。学年の記述は資料によってずれるため、ここでは「子どものころ手塚作品に出会った」とだけ書く。
デビュー作の『嵐をこえて』は少女漫画だった。書籍紹介サイトの記事によれば、当初の活躍の場は貸本の少女漫画が中心である。トキワ荘へは、投稿時代に知り合った石ノ森章太郎に誘われて上京し、入居した。
ギャグへの転換点として、日本大百科全書などを収めたコトバンクは1958年の『ナマちゃん』を挙げる。この作品は『漫画王』に連載された。赤塚は少女漫画の描き手から、ギャグの描き手へと軸足を移したことになる。
くわしく 連載の掛け持ちと掲載誌の移動
1962年、『週刊少年サンデー』に『おそ松くん』の連載が始まった。筑摩書房の著者紹介は、この作品で大きな人気を得たと書く。書籍紹介サイトの記事によれば、連載中に掲載誌を渡り歩いた作品でもある。
1960年代なかばから後半にかけては、複数の週刊誌連載が並ぶ。『天才バカボン』は1967年に始まった。書籍紹介サイトの記事は講談社の雑誌で始まり、途中で小学館のサンデーに移り、その後講談社に戻って一度完結したと書く。連載の始まりが週刊少年マガジンの1967年4月9日号だったという記述も検索で見つかったが、開けた資料では確かめられなかった。
同じ書籍紹介サイトの記事は、『もーれつア太郎』の始まりに編集部の事情があったと書く。『天才バカボン』に対抗するため、サンデー編集部が『おそ松くん』を月1回の連載に変えて終わらせ、新連載を始めたという。当初は苦戦したが、人情を前面に出す路線で人気を得た。
くわしく フジオ・プロと担当編集者
文藝春秋の記事(北見けんいちへの聞き書き)は、新大久保のアパートの仕事場の様子を伝える。赤塚は四畳半に住み、六畳がアシスタントの仕事場だった。北見は、サンデーに原稿を持ち込んだとき、赤塚番の編集者に紹介されて働き始めた。弟子の第一号であり、最も長く赤塚のもとにいたという。古谷三敏と高井研一郎はすでにデビューしていて、助っ人でありパートナーでもあった。
作り方も記事から分かる。赤塚は古谷や担当編集者とアイデアを出し合い、古谷がギャグを、高井がキャラクターの作画を受け持った。イヤミやハタ坊といったキャラクターは、この過程で生まれたという。北見の受け持ちは、原稿用紙の切り出し、枠線、穴あけ、ベタ塗りなどの仕上げだった。
担当編集者の名として、書籍紹介サイトの記事は『レッツラゴン』を担当した武井俊樹を挙げる。赤塚が打ち合わせをしながら、その場で原稿に描き込んでいたとされる。ここから、赤塚の連載が作者ひとりの机ではなく、編集者を含む複数人の場で形づくられていたことが読み取れる。
なぜ今も語られるのか
ギャグ漫画の転換点としての位置づけは、事典類にも出てくる。コトバンクの記述は、赤塚が1960〜70年代にギャグ漫画のブームを起こしたとし、長谷川町子と並ぶ戦後ギャグ漫画家の象徴的存在とする。1997年の日本漫画家協会賞文部大臣賞は「全作品」への授与で、ギャグ漫画家としての仕事全体が評価された形である。
もう一つは、人を育てた仕事場としての面である。コトバンクも文藝春秋の記事も、フジオ・プロから多くの漫画家が出たと書く。
評価の分かれる点
資料の間で食い違う箇所がある。第一に、小学館漫画賞の受賞年。コトバンクは1965年、マンガペディアの年表は第10回として1964年と書き、同ページの経歴文は1965年としている。確かめられなかったため、1964年か1965年とする。
第二に、『もーれつア太郎』の開始年。マンガペディアは1966年、書籍紹介サイトの記事は1967年と書く。第三に、フジオ・プロの設立年。確かめられたのはマンガペディアの1965年だけである。公式の資料では裏取りできていない。
『おそ松くん』のテレビアニメ化と『天才バカボン』のアニメ化は、開けた資料に年の記述がなく、この記事では年を書かない。
くらさんの考察
赤塚の仕事の流れは、少女漫画からギャグへ軸足を移し、人気が出ると週刊誌の連載を増やし、仕事場の分業で量をこなす、という順に進んだと考えられる。分業の中身は古谷がギャグ、高井が作画、北見が仕上げというもので、出版社の側にも、人気作家に新しい連載を重ねる事情があったとうかがえる。
『もーれつア太郎』の始まり方は、作者の意向だけでなく編集部の判断が連載の形を決めた例として読める。ただし、この経緯は一つの記事の記述であり、当事者の証言までは確かめられていない。
ジージへの問いかけ
・ジージが少年雑誌を読んでいたころ、赤塚のギャグ漫画はクラスや近所でどう受け止められていましたか。
・弟子を育てる仕事場という形は、トキワ荘の仲間づきあいの延長だったと思いますか。
・同じ作者の連載が複数の出版社の雑誌に載るのを、読者として自然に感じましたか。
出典
・筑摩書房 赤塚不二夫(著者ページ) https://chikumashobo.co.jp/author/001740/
・筑摩書房 『おそ松くん ベスト・セレクション』 https://chikumashobo.co.jp/product/9784480433596/
・筑摩書房 『赤塚不二夫のだめマンガ』 https://www.chikumashobo.co.jp/product/9784480436214/
・筑摩書房 『バカ田大学なのだ!?』 https://chikumashobo.co.jp/product/9784480037961/
・コトバンク 赤塚不二夫(デジタル大辞泉・日本大百科全書ほか) https://kotobank.jp/word/赤塚不二夫
・ホンシェルジュ(書籍紹介サイト) 赤塚不二夫の記事 https://honcierge.jp/articles/shelf_story/5546
・文藝春秋 赤塚不二夫 バカ騒ぎも弟子の務め(北見けんいち) https://bunshun.jp/bungeishunju/articles/h11055
・マンガペディア 天才バカボン https://mangapedia.com/gd/3z5z40xma
動画
・【第1回】天才バカボン (1971)(TMSアニメ公式チャンネル)https://www.youtube.com/watch?v=5LptOZ9nrtY
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