No.2新着 戦後〜1959 赤本から手塚治虫、トキワ荘、そして週刊誌へ
戦後の赤本と貸本から、手塚治虫の登場、投稿雑誌とトキワ荘、劇画の誕生、1959年の週刊誌創刊までをたどる。物語を長く読ませる漫画が、場所を変えながら育っていく流れを書いた。
本文と出典
あらまし
戦後の十数年は、漫画の売り場と描き手が入れ替わった時期である。
売り場は、おもちゃ屋や露店の赤本から、貸本屋、月刊の少年雑誌、そして週刊誌へ広がった。
描き手は、関西の赤本で腕を磨いた手塚治虫から、投稿欄で育った若者たちが東京の同じアパートに集まるトキワ荘の世代へ移った。
主なできごと
・1946年 手塚治虫が大阪の新聞に四コマ漫画でデビューする
・1947年1月 酒井七馬原作、手塚治虫作画の『新寶島』が刊行され、大きく売れる
・1948年 『漫画少年』が創刊される(昭和22年12月発行の記載もある)
・1952年4月 手塚治虫の『鉄腕アトム』が光文社の月刊誌『少年』で始まる
・1953年 手塚治虫がトキワ荘に移る
・1955年8月 集英社が少女向けの総合誌『りぼん』を創刊する
・1958年 「劇画」の語が雑誌『影』の誌面に初めて載る
・1959年3月17日 『週刊少年サンデー』と『週刊少年マガジン』が同じ日に創刊される
赤本と手塚治虫
赤本は、おもちゃ屋や印刷屋が副業のように作った、薄い漫画本である。
京都国際マンガミュージアムの解説によれば、表紙が赤っぽく、書店ではなくおもちゃ屋、露店、縁日で売られた。昭和30年ごろまで関西で売られ、大人からは読み物と認められなかったが、子どもにはよく売れた。東京では貸本屋でしか見かけなかったという。
手塚治虫の公式年譜によると、手塚は1946年に『少国民新聞』大阪版の四コマ漫画でデビューした。
1947年1月に出た『新寶島』は、酒井七馬の原作を手塚が描いた長編である。公式年譜は、版を重ねて40万部を売り尽くしたと記す。
この数字は公式の記述であり、第三者の統計ではない。「40万部ともいわれる」という言い方が、実態に近い。
投稿雑誌とトキワ荘
『漫画少年』は、元『少年倶楽部』編集長の加藤謙一が、戦後に講談社を離れたのちに始めた雑誌である。手塚治虫の『ジャングル大帝』が載り、読者投稿欄には、のちにトキワ荘に集まる寺田ヒロオ、藤子不二雄、石森章太郎らが繰り返し投稿していた。
文化庁のメディア芸術カレントコンテンツの記事は、この雑誌が売れ行きを落とした後半期に、トキワ荘のメンバーが誌面で活躍したと述べる。
『鉄腕アトム』は1952年4月に『少年』で始まり、1968年3月まで続いた。
手塚は1953年にトキワ荘に引っ越した。トキワ荘は東京の椎名町にあった木造アパートで、1952年12月に棟上げし、1982年12月に取り壊された。2020年7月に、豊島区が近くの公園内にトキワ荘マンガミュージアムを開いた。
若い漫画家が一つの建物に集まって暮らした事実は、手塚個人の人気だけでは説明できない。投稿雑誌が若者を結び、手塚が先に道を開いたことが重なった結果だと考えられる。
貸本屋と劇画
貸本屋は、戦後の漫画の大きな舞台の一つだった。
コトバンクの百科事典の記述によれば、貸本屋は多くの漫画家と読者を育て、1960年代後半以降の漫画の時代の基礎をつくった。
劇画は、その貸本から生まれた呼び名である。辰巳ヨシヒロらが1955年ごろに自作を「劇画」と呼び始め、この語が雑誌の誌面に初めて載ったのは1958年とされる。1959年には、辰巳らの「劇画工房」が宣言を出した。
背景には、1953年にテレビ放送が始まって紙芝居が衰え、紙芝居の絵描きが長編の物語を描ける貸本へ移ったことがある。
週刊誌の登場
1959年3月17日に、小学館の『週刊少年サンデー』と講談社の『週刊少年マガジン』が同じ日に創刊された。
nippon.comの解説によると、価格はサンデーが30円、マガジンが40円で、サンデーは手塚治虫、藤子不二雄らを先に確保した。小学館の創刊計画が先に進み、講談社が追い上げて同日の創刊になった。
月刊から週刊へ変わると、描き手には毎週の締め切りが課される。この変化は、次の1960年代に漫画の作り方と読まれ方を大きく変える。
なぜ受けたのか
戦後の子どもには、紙も娯楽も不足していた。薄くて安い赤本や、借りて読める貸本は、その事情に合っていたと考えられる。これは資料から直接確かめた事実ではなく、くらさんの推測である。
確かめられるのは、『新寶島』の成功が赤本の流行を呼び、そこから物語を長く読ませる漫画が育ったという流れである。
評価の分かれる点
手塚治虫を中心に戦後の漫画史を語る見方には、批判もある。
文化庁のメディア芸術カレントコンテンツに載った書評は、日本の漫画を語る言説が手塚を中心に組み立てられてきたと指摘する。同じ時期に貸本や少女向けの雑誌で育った流れを、手塚の前史として扱いすぎる危うさがあるという趣旨である。
本稿は手塚を重視しつつ、貸本と劇画を別の流れとして並べた。
くらさんの考察
戦後の十数年で、漫画は「売り場」ごとに別の文化として育ったと考えられる。
赤本と貸本は大人の目の届かない場所で、投稿雑誌は才能の発掘の場として、週刊誌は大量の読者を相手にする場として働いた。
この三つが後の時代に重なり合うので、1960年代の漫画は、劇画も少女漫画も同時に伸びていく。
ジージへの問いかけ
・子どものころ、貸本屋や駄菓子屋の店先で漫画を読んだ思い出はありますか。
・『鉄腕アトム』を最初に読んだのは、雑誌でしたか、テレビでしたか。
・赤本の絵や紙の手触りで、今も覚えていることはありますか。
出典
・新寶島(手塚治虫公式サイト) https://tezukaosamu.net/jp/manga/207.html
・手塚治虫 年譜 1940年代(手塚治虫公式サイト) https://tezukaosamu.net/jp/about/1940.html
・手塚治虫 年譜 1950年代(手塚治虫公式サイト) https://tezukaosamu.net/jp/about/1950.html
・鉄腕アトム(手塚治虫公式サイト) https://tezukaosamu.net/jp/manga/291.html
・赤本(京都国際マンガミュージアム 大マンガラクタ館) https://kyotomm.jp/aramata/daimanga_vol1.html
・「漫画少年」とトキワ荘の時代(文化庁 メディア芸術カレントコンテンツ) https://mediag.bunka.go.jp/article/post_278-1119/
・劇画(コトバンク) https://kotobank.jp/word/%E5%8A%87%E7%94%BB
・豊島区立トキワ荘マンガミュージアム(タイムアウト東京) https://www.timeout.jp/tokyo/ja/%E3%82%A2%E3%83%BC%E3%83%88/%E8%B1%8A%E5%B3%B6%E5%8C%BA%E7%AB%8B-%E3%83%88%E3%82%AD%E3%83%AF%E8%8D%98%E3%83%9E%E3%83%B3%E3%82%AC%E3%83%9F%E3%83%A5%E3%83%BC%E3%82%B8%E3%82%A2%E3%83%A0
・漫画週刊誌の日 3月17日(nippon.com) https://www.nippon.com/ja/japan-topics/today0317/
・書評『少女マンガの表現機構』(文化庁 メディア芸術カレントコンテンツ) https://mediag.bunka.go.jp/article/1044-2/
動画
・2020年、トキワ荘時代の思い出やコロナ禍での過ごし方について語る藤子不二雄Aさん(朝日新聞)https://www.youtube.com/watch?v=Z_9XJL1og-Y
・手塚治虫伝マンガ篇(手塚プロダクション公式チャンネル)https://www.youtube.com/watch?v=bLlf0x0jucY
関連動画
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