No.222新着 タンタンの冒険(エルジェ・ベルギー・1929年) 新聞の子ども付録から始まり、日本では福音館書店が全巻を出した
『タンタンの冒険』は、ベルギーのエルジェが1929年1月10日にカトリック系新聞の子ども向け付録で始めた連載である。線を単純にそろえる絵柄は、のちに「リーニュ・クレール(明快な線)」と呼ばれた。日本語版は1968年の主婦の友社版を経て、1983年から福音館書店が出した。コンゴを舞台にした巻の描き方には、いまも議論がある。巻数は資料により23と24に分かれる。
本文と出典
あらまし
『タンタンの冒険』は、ベルギーの作家エルジェ(本名ジョルジュ・レミ)が描いた長編の冒険漫画である。少年記者のタンタンと犬のスノーウィが、世界各地で事件に巻き込まれる。1冊に1つの物語が入る本の形(アルバム)で出版され、物語は何冊も続く。
フランス語圏のバンド・デシネ全体の歴史は、すでに別の記事(id 132)で扱った。この記事は、その中のタンタン1作に絞る。新聞の付録で始まった連載が本になり、国境を越えて日本の書店に並ぶまでを、開いた資料で確かめた範囲で書く。
主なできごと
・1907年5月22日 エルジェがブリュッセルのエテルベークで生まれる(Lambiek)
・1928年11月1日 子ども向け付録『Le Petit Vingtième』が創刊される(Lambiek)
・1929年1月10日 『タンタンの冒険』の連載が始まる
・1934年 カステルマン社が単行本の出版権を得る(Lambiek)
・1942年 カステルマン社からアルバムの刊行が始まる(ラルース)
・1946年9月26日 雑誌『タンタン』の創刊号が出る(Lambiek)
・1968年 日本で最初の日本語版が主婦の友社から出る
・1983年 福音館書店版の刊行が始まる。同じ年にエルジェが亡くなる(3月3日)
・2012年 コンゴ版をめぐる訴えを、ブリュッセルの裁判所が退けたと報じられる
くわしく 新聞の付録で始まった連載
連載の舞台は、ベルギーのカトリック系の日刊紙『ル・ヴァンティエーム・シエクル(20世紀)』の週刊の子ども向け付録だった。ラルースの百科は、この付録の名を『Le Petit Vingtième』とし、連載の開始を1929年1月10日とする。Lambiek は、連載が1930年5月8日まで続いたとし、最初の物語は『ソビエトの国のタンタン』だったと書く。日本語版ウィキペディアは、この付録での連載が1929年から1940年までで、その後『ル・ソワール』などの新聞を経て、1946年からは雑誌『タンタン』に移ったと整理している。
付録の編集に当たったのが、1925年に同紙に入っていたエルジェである。Lambiek によれば、編集長だった司祭のノルベール・ワレは、共産主義の危険を子どもたちに知らせるために、この連載を求めたという。最初の巻が反共産主義の色の濃い作品になった理由は、ここにある。ラルースも、この巻が反共産主義の小冊子に影響されたと書く。
くわしく 本になり、雑誌になる
単行本の出版権は、Lambiek によれば、1934年にカステルマン社が得た。ラルースはカステルマン社のアルバム刊行を1942年からとしており、年が合わない。1934年は権利を得た年、1942年は同社のアルバムが出始めた年と読めるが、資料の書き方からはそこまで確かめきれなかった。
1946年には、ロンバール社の雑誌『タンタン』が創刊された(Lambiek)。連載の場が、新聞の付録から子ども向けの漫画雑誌に移ったことになる。一方、エルジェの死去(1983年3月3日)の時点で、最後の巻『タンタンとアルファアート』は下描きの段階で止まっていた。Lambiek は、遺族が別の作家による完成を認めず、1986年に下描きと脚本の一部が本として出たと書く。
巻数は資料で食い違う。ラルースと日本語版ウィキペディアは全24作とし、Lambiek は正式なシリーズを23冊とする。未完の巻を数えるか、最初の『ソビエト』を数えるかで変わると考えられるが、確かめた資料に理由は書かれていない。
くわしく 明快な線
絵柄は「リーニュ・クレール」と呼ばれる。ユニヴェルサリスの項は、すぐ理解できる絵、写実的でありながら余計な細部を省いた線を指すとし、エルジェがこの流儀をアラン・サン=オジャンから受け継いだと説明する。名前がついたのはずっと後で、同じ項は「半世紀後」と書くだけである。英語版ウィキペディアは、名づけたのがオランダのヨースト・スワルテで、1977年だと書く。Lambiek は、1970年代とする。
特徴は、同じ太さに近い輪郭線、ハッチング(細かい線の重ね描き)を使わない陰影、抑えた対比である(英語版ウィキペディア)。Lambiek は、新聞のインクがにじみやすかったため、線を細く澄んだものにしたと説明する。この説明は一つの資料にしか見えず、定説かどうかは分からない。
くわしく 日本語版
日本語版ウィキペディアによれば、最初の日本語版は1968年に主婦の友社から『ぼうけんタンタン』の名で出た。阪田寛夫の訳で3作が出たが、続かなかった。
福音館書店版は1983年に『タンタンの冒険旅行』の名で刊行が始まり、訳は川口恵子が担った。2011年に『タンタンの冒険』と改題され、2007年12月刊の作品までで全24作を出し終えたと、同じ記述にある。絵本ナビの商品ページで、『タンタンとソビエトへ』の発売日が2005年9月30日で、訳者が川口恵子であることを確かめた。シリーズの最初の巻が日本では後の方に出たことになる。
発行部数も条件つきで読む必要がある。日本語版ウィキペディアは、全世界で3億5,000万部以上、80か国語以上に翻訳されたとする。福音館書店版は2011年12月時点でハードカバー約107万部、ペーパーバック約26万部とあるが、これは同記述が示す数字で、出版社の発表は確かめていない。
なぜ今も語られるのか
確かめられる事実は二つある。一つは、新聞付録、アルバム、雑誌と、掲載の場を移しながら半世紀近く続いたことである。もう一つは、明快な線という名がつくほど、絵柄が一つの型として語られることである。人気の理由そのものを示す資料は、今回は開けなかった。
評価の分かれる点
『タンタン コンゴ』の描き方は、いまも議論の対象である。ラルースは、この巻がアフリカをナイーブに描き、植民地主義的でベルギーの家父長的な精神を反映していると書く。Lambiek は、この巻を宣伝の色が濃い作品とし、黒人を原始的で怠惰で幼いと描いていると書く。同じ資料は、のちに描き直されてカラー化され、ベルギーを直接示す部分が除かれ、1975年にはサイの場面が変えられたとも伝える。
2012年2月、ブリュッセルの裁判所は、この本の販売を禁じる申請を退けた。世界を報じるラジオ番組のサイト(theworld.org)によれば、コンゴ出身のブヤンヴニュ・ムブトゥ・モンドンドが2007年から禁止や表紙の注意書きを求めて運動していた。裁判所は、人種憎悪をあおる意図はなく、植民地時代に書かれたため差別の意図があったとも言えない、と判断したという。判決の日付はこのページに書かれていなかった。
くらさんの考察
日本の少年漫画が週刊誌の連載から単行本へ進んだのに対し、タンタンは新聞付録、雑誌、アルバムと、掲載の場が重なって広がったと考えられる。ただし、これは確かめた年表から読んだ比較であり、読者数のデータは開いていない。日本語版も、1968年の中断、1983年の再開、2005年の『ソビエトへ』と、一度に出そろったわけではない。差別的な描写を含む古い作品を、どう読み、どう出し続けるかは、日本の漫画の復刊にも通じる問いだと考えられる。
ジージへの問いかけ
・1983年ごろ、福音館書店の大判のタンタンを書店や図書館で見かけた記憶はありますか。
・昔の作品に、いまの目で見て問題のある描写が含まれるとき、注意書きをつけて出すのと、描き直すのと、そのまま出すのとでは、どれが良いと思いますか。
・新聞の付録で始まった連載が、日本でいえばどの雑誌にあたると思いますか。
出典
・ラルース百科「Tintin」 https://www.larousse.fr/encyclopedie/divers/Tintin/146848
・Lambiek Comiclopedia「Hergé」 https://www.lambiek.net/artists/h/herge.htm
ユニヴェルサリス「Hergéla ligne claire」 https://www.universalis.fr/encyclopedie/herge/3-la-ligne-claire/
・ウィキペディア「タンタンの冒険」(手がかりとして参照) https://ja.wikipedia.org/wiki/タンタンの冒険
・ウィキペディア(英語)「Ligne claire」 https://en.wikipedia.org/wiki/Ligne_claire
・The World「Tintin's Congo adventure not racist: Belgian court」 https://theworld.org/stories/2012-02-13/tintins-congo-adventure-not-racist-belgian-court
・絵本ナビ『タンタンの冒険 タンタン ソビエトへ』 https://www.ehonnavi.net/ehon00.asp?no=13937
この記事を読んで浮かんだ疑問は、運営者ジージがよろず研究室でくらさんに質問し、答えをそこに載せていきます。